聴覚障がい者の生活を一変させたアトファルナろう学校とCCPの関わり

中東ジャーナリスト 川上泰徳

昨年8月にガザ、10月-11月にベイルートに入り、「パレスチナ子どものキャンペーン(CCP)」が支援している現地のNGOの活動の現場を見ました。現地のスタッフや子どもたちに話を聞き、日本のNGOであるCCPの支援活動について考えてみました。私は朝日新聞の記者として1994年から20年間、中東専門記者としてほとんどの期間を中東で過ごしました。 私は大学でアラビア語を専攻し、学生時代にカイロ大学に留学しましたが、中東特派員になる前に、1986年から89年まで学芸部の家庭面で記者をしていたことがあります。そのころ、創設したばかりのCCPを取材し、パレスチナの子どもの絵画展などを取材したことがあり、その後もCCPとは記者としていろいろな形で関わってきました。
2015年に新聞社を退社し、フリーランスのジャーナリストとして中東で取材を始めました。パレスチナ問題も私がこだわっているテーマの一つですし、30年にわたるCCPの活動を改めて取材することは、日本とパレスチナの関わりを考えるうえで非常に重要なことだと考えました。まずガザのアトファルナろう学校の活動について報告します。

アトファルナはガザで初めてできたろう学校です。1992年にガザでパレスチナ人と結婚した米国人女性ジェリー・シャワーさんがCCPの資金協力を得て開校しました。現在のナイーム・ハバージャ校長(52)の話によると、最初に開いたのは幼稚園で、93年に小学1年生のクラスを開き、その後、毎年新入生を受け入れて、2000年に中学、2013年に高校を開いたということです。 一方で2005年から聴覚障がい児の早期発見のための検査や診断部門を開いて、検査と早期対応できる対応をとっています。さらに障がい者の職業訓練を始め、刺繍などの工芸品や家具などの販売も始めました。2012年には卒業生が働くレストランがオープンし、自立に向けた支援の可能性を広げています。2015年にはイスラム大学に聴覚障がい者向けのIT(情報技術)とコンピューター整備の2年間のコースが開講され、115人が登録しました。

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ナイーム・ハバージャ校長

ナイーム校長は「CCPはアトファルナの設立から関わり、すべて発展の段階で一緒にやってきました。ガザでは日本の市民組織であるCCPがアトファルナに協力していることはよく知られています。私たちはCCPを我々のパートナーだと考えています」と語りました。 2014年夏、イスラエルによる50日間の空爆と侵攻があった時に、CCPから支援の申し出があり、避難所となっている学校や病院などの避難民への食糧配布を行いました。「戦争が始まって最初に声をかけてくれたのがCCPでした。この支援活動は、私たちにとってはアトファルナの外の社会に向けた初めての支援活動でしたが、アトファルナが社会の一員であるということを人々に知らせる貴重な機会になりました」とナイーム校長は語りました。

スタッフで教育助手のリハーブさん(46)と早期発見部門の助手をしているアビールさん(35)に話を聞きました。二人は聴覚障がい者ですが、子どものころパレスチナ難民救済機関(UNRWA)の援助を受けて、ヨルダンのろう学校で教育を受けました。

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リハーブ・シャハータさん

リハーブさんは6歳から12歳まで勉強し、職業訓練として裁縫も学びました。1990年にガザに戻って一時、普通の中学校に通いましたが、授業についていけずにやめました。その後、縫製工場で働いていましたが、アトファルナが開設されて幼稚園で働くようになったそうです。 リハーブさんは「アトファルナが開かれる前はガザでは聴覚障がい者に対する理解は全くなく、何も理解しない者として扱われ、殴られたり、石を投げられたり、あざけられたりして、全く人間扱いされていませんでした」と話してくれました。アトファルナができるまでガザの聴覚障がい者は社会の無理解のために悲惨な状況に置かれていたのです。

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アビール・シャグヌービさん

アビールさんがヨルダンに行ったのは1986年で、12年間学び、1997年に高校生の途中で17歳でガザに戻りました。この時にはアトファルナが始まっており、すぐに幼稚園の補助教諭として働き始め、子どもたちに手話を教えました。その後、ガザで働きながら高校の勉強を再開し、高校を終えた後、イスラム大学でコンピューターを専攻しています。リハーブさん自身がアトファルナと共に学び、成長してきたことが分かりました。 アビールさんはアトファルナの幼稚園で働くようになって、CCPが強く関わっていることを知ったと言います。日本から聴覚障がいの教諭が来て一緒に働いたこともありましたし、絵画の専門家も来たそうです。「日本の文化や遊びにとても興味を持ちました。子どもたちは折り紙が大好きです」と話し、部厚いファイルを見せてくれました。そこには1ページごとに折り紙が張られていました。完成するまでの、途中の手順をすべて貼り付けています。最初はアトファルナに来た日本人に教えてもらい、その後は自分で折り紙の本を見て折っているそうです。

アトファルナを卒業した2組の夫婦にも話を聞きました。最初はアラさん(31)と妻のサマーヘルさん(32)です。アラさんは小学校で1年間、普通学校で学びました。「授業は全く理解できず、毎日がつらかった」と言います。2年目からアトファルナに移り、6年まで通って、その後、家具職人の職業技術を学び、家具工場で働いたこともありますが、3年前から聴覚障がい者についての啓蒙活動をする組織を立ち上げて、ガザ政府の許可を得て活動しているそうです。イスラム大学のコンピューターコースにも通い、終了したら、ガザの情報関係の会社に就職したいという希望を語りました。

サマーヘルさんは8年間、普通学校に通って、裁縫の職業訓練を受けるためにアトファルナに来たそうです。彼女は相手の口の動きを読む「読話」によって話の内容を知り、普通学校でも優秀な成績を上げていました。特に数学が得意だということです。アトファルナで初めて手話を学び、「もっとはっきりと理解できるようになった」と言います。

裁縫は優秀で、職業コースを終えた後、高校の授業を受けながら、裁縫の先生として2年間働き、その後は、ろう学校で数学教師として11年働いています。アラさんが「サマーヘルの頭の中には計算機が入っている」というほどで、普通学校の数学で優秀な成績を上げたということからも、その才能がアトファルナで開花したことが分かりました。二人にはいま一歳の長女がいます。

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アラ・エリヤンさんと妻のサマーヘルさん

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アクラム・ハッサンさんと妻のファテマさん

もう一組の夫婦はアクラムさん(30)と妻のファテマさん(30)です。アクラムさんはアトファルナの職業訓練でピザをつくる技術を修得しました。その後、アトファルナが5か月分の給料を負担するという条件で、ピザレストランで働き始めました。その期間が終わった後、レストランのオーナーがアクラムさんの技術と人柄を見て、雇うことを決めたそうです。 アクラムさんは「レストランの同僚が仕事に必要な手話を覚えてくれているので、毎日の仕事でも問題がない」と語ります。ガザで聴覚障がい者に対する理解が進んでいることを示しています。ファテマさんはアトファルナの小学校を終えた後、家族と共に英国と米国に移り住み、それぞれの国で手話を学びました。いまではアトファルナで英語の教師をしています。
アクラムさんの父親は、ファテマさんが障がい者だということで結婚に反対し、説得するのに3年かかったそうです。しかし、2人にはいま長女、長男、次女という3人の子どもを持ち、子どもたちはみな健聴者です。ファテマさんは「長女の子育てでは子どもが泣いても聞こえないので、24時間、夫婦でどちらかが起きておくようにするなど大変でしたが、いまは長女が助けてくれます」と話しました。

ガザでは2008年末から2014年夏までの6年間で3回、イスラエルによる大規模攻撃がありました。ファテマさんは「私たちは爆弾の音が聞こえないので、何が起こっているかわかりません。2014年には家のすぐ近くのモスクが破壊され、避難しなければなりませんでした。停電が続くと、夜、手話も見えないのでとても不安です」と、聴覚障がい者ならではの困難を話してくれました。

ガザでは封鎖が続き、状況は厳しいままです。その中で、アトファルナでスタッフや卒業生の二組の夫婦の話を聞くことで、ガザの聴覚障がい者の生活がどれほど変わったかを実感することができました。アトファルナが開校するまで、聴覚障がい者は、教育から排除され、仕事に就くことも、ましてや結婚することもできず、社会生活から排除されていたのです。それはわずか四半世紀前のことです。

アトファルナの歩みは、ガザという厳しい状況の中で、そこに住む人間の可能性を広げることができることを実践の中で証明するものです。そのような社会の発展に、日本の市民組織であるCCPが最初から支援し、パートナーとして関わったことは素晴らしいことだと私自身実感することができました。

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