レバノン:シャティーラ難民キャンプ「子どもの家」
家族と子どもを支え続ける

Photo

幼稚園での絵本の読み聞かせ

中東ジャーナリスト 川上泰徳

ベイルートの南郊にあるシャティーラ難民キャンプは一平方キロに満たない地域です。キャンプと言っても今では6 階、7階のコンクリート建ての住宅がひしめき、その間を迷路のように道が入り組んでいます。このキャンプで国連パレスチナ救済機関(UNRWA)に登録されている難民は約1万人ですが、2011年に内戦が始まったシリアから多くのパレスチナ難民やシリア難民がキャンプに住み、難民人口は2万人を超えているといわれます。

このシャティーラ難民キャンプの一角に、「パレスチナ子どものキャンペーン(CCP)」が 1986 年から支援している NGO「子どもの家」があります。幼稚園や小学生低学年の補習クラスがあり、狭い入り口にはいつも子どもたちの姿があります。

シャティーラは1982 年 9月にあった「サブラ・シャティーラの虐殺」で知られています。当時、レバノンで強い影響力を持っていたパレスチナ解放機構(PLO)を排除するためにイスラエル軍がレバノンに侵攻し、西ベイルートを包囲して、PLO を退去させました。その後、イスラエル軍は丸腰となったサブラ・シャティーラキャンプにキリスト教右派民兵を入れ、大虐殺が行われました。9月16日夕方から18日昼まで3日間続いた虐殺の犠牲者数は、数百人から3000人台の数字があり、多くの行方不明者が出ていることから確定していません。

虐殺の後、孤児の支援のために開所

「子どもの家」はこの虐殺で親を失った多くの子どもたちを支援するために84 年にシャティーラに開かれました。現在の所長のジャミーラ・シェハーデさんは開所以来のスタッフです。日本とのかかわりは、この虐殺事件の直後に現地に入った報道カメラマン、広河隆一さんが日本で虐殺事件の遺品展を行い、さらに虐殺の孤児たちの支援を始めたことが契機となっています。

Photo

シャティーラキャンプ
「子どもの家」所長ジャミーラ・シェハーデさん

ジャミーラさん自身はキャンプに家族で住み、虐殺事件の前はキャンプにある別の幼稚園で働いていました。虐殺の後、親を失った孤児たちの支援のために「子どもの家」が開かれることになり、働き始めました。最初は、親を失った子どもたちの調査と登録を始めて、外国のNGOに子どもたちへの支援を求めました。広河さんを通して日本からの支援も来ました。

ジャミーラさんは当時を振り返って「キャンプは破壊されて、電気や水もなく、悲惨な状況でした。働き手の父親や夫を失い、多くの子どもを抱えて途方にくれている母親たちがたくさんいました」と語ります。虐殺から34周年を迎えた9月16日、シャティーラ・キャンプの近くにある地域会館で記念行事が開かれました。その行事で、虐殺で夫と父親を失ったシャヒーラ・アブルデイナさん(58)が遺族を代表して「私たちは決してパレスチナのことを忘れないように、虐殺のことを忘れることはありません」とスピーチをしました。

忘れることがない惨状と、幼子をかかえての困難

シャヒーラさんは「子どもの家」に支えられてきた女性の一人でした。ジャミーラさんに案内されてシャヒーラさんの家を訪ねました。虐殺の中心になったサブラ通りに面したアパートの3 階にあります。  当時、シャヒーラさんの家には弟夫妻、甥夫妻やその子どもなども合わせて16人が集まっていたそうです。虐殺は16日夕方から始まっています。夜遅く、妹が外の様子を見るためにサブラ通りにでたところで銃撃に倒れ、助けに行った父親も戻りませんでした。シャヒーラさんの家に右派民兵が入ってきたのは17日の早朝です。シャヒーラさんは半月前に生まれた乳飲み子の3 男を抱え、2人の息子と、1人の娘の 4人の子どもと一緒にいました。弟や甥ら男たち3人は家に入ってきた民兵に連れ出され、壁の前に並ばされて、目の前で銃の掃射を受けて殺害されました。

シャヒーラさんは「34 年たったいまでも、目の前で夫や弟を殺されたことや、惨殺された遺体が覆っていた通りの恐ろしい光景は鮮やかに覚えています」と語ります。虐殺で父親と夫を失い、乳飲み子を含む4人の子どもを育てていかねばなりません。途方にくれている彼女のところに「子どもの家」のスタッフが訪ねてきてきました。話を聞いて登録し、家族への生活費補助と、子どもたちへの支援を受け、3 歳の娘は「子どもの家」の幼稚園に入れたそうです。

シャティーラ・キャンプは虐殺の後も、85 年から87年にかけては、シーア派民兵組織の包囲攻撃を受けるなど悲劇は続きます。シャヒーラさんは「一番の支えになったのは、家庭のことや子どものことで困ったときに、『子ども家』に相談に行くことができたことです。それによって救われました」と語りました。

学校をドロップアウトした息子

いま、シャヒーラさんは虐殺事件の時、生後15日だったマーヒルさん(34)の家族と一緒に住んでいます。マーヒルさんは3 歳から5歳まで「子どもの家」の幼稚園に通った後、UNWRA の小学校に行きましたが、2 年間通っただけでドロップアウトして、オートバイ修理店の使い走りをし、一日300 円程度のお駄賃をもらうことで家計を助けました。マーヒルさんは12 歳で初めて自分のオートバイを買い、見よう見まねで修理を習得して、オートバイの修理をして稼ぐようになりました。

18 歳で壊れたワゴン車を買って、それをサブラ通りにおいて、自分の店としました。その店を広げて、いまでは通りに面した部分だけでなく奥に倉庫を持つまでになりました。「一年一年、仕事をして、お金をためて、店を広げてきたんです」とマーヒルさんは語ります。

働く子どもだったマーヒルさんにとって、子どもらしい思い出は、「子ども家」の幼稚園での活動だけだったそうです。ダブカというパレスチナのダンスを踊ったり、絵を描いたりした記憶です。10 年前に結婚したマーヒルさんは10 歳から1歳まで1男 4女、5人の子どもがいます。小学生の娘 3人はすべて「子どもの家」の幼稚園に通い、いまは3 歳の長男アダムちゃんが通っています。

マーヒルさんは自分の子ども時代を思い出しながら、「キャンプは荒廃し、家庭の暮らしはみな大変ですから、子どもたちが子どもらしく活動できるのは幼稚園で遊んだり、音楽や絵画の活動をしたりしている間だけなのです」と言います。

30年を経て、再び手にした家庭の幸せ

キャンプの周辺にはいくつもの幼稚園があり、中には学習に力をいれている幼稚園もあるそうです。その中で「子どもの家」はダンスや絵画など情操を重視しています。マーヒルさんは「私は、勉強は学校に入学してからでいいと考えています。幼稚園では子どもたちは様々な活動を通して、子どもたちが楽しむ時間を持つことが大切です。それが学校に行って学ぶための基礎にもなるのですから」と語ります。

CCP は「子どもの家」の幼稚園の活動を支援し、日本から絵画教育の専門家を「子どもの家」に送ったり、パレスチナの子どもたちが描いた絵画の展示会を日本で開いたりする活動をしています。

マーヒルさんの長女のリナさん(10)に「子どもの家」の幼稚園の思い出について聞くと、「好きだったのは、パレスチナの歌を歌ったり、ダンスをしたりしたことです。キャンプの外にバスで小旅行に行くのも楽しかった」と話してくれました。リナさんは将来美容師になりたいといいます。

虐殺から34 年がたち、シャヒーラさんが「子どもの家」の支援を受けて32 年。CCP が支援するようになってから30 年がたちました。その時間の流れの中で、シャヒーラさんと息子のマーヒルさんの頑張りがあって、いまシャヒーラさんは孫たちに囲まれる家庭の幸せを再び手にしました。CCP の30 年は、このような家族を支えてきた歩みだということを実感することができます。

日本からの支援に「誇らしく思う」

私事ですが、私がジャーナリストとして初めて「パレスチナ子どものキャンペーン(CCP)」や姉妹組織の「パレスチの子どもの里親運動」と出会ったのは80 年代半ばに朝日新聞の家庭面の記者として、広河さんのシャティーラ難民への支援活動を取材した時でした。里親運動に参加している会員たちの話も聞きました。父親を失った子どもに毎月送金をするという関わりによって、それまで新聞やテレビで見る遠い戦争だったものが、いきなり子どもたちが生きている生々しい現実として見えてくるという話です。里親の中には、自分の子どもと同じ年の子どもを里子にした人もいて、レバノン内戦が激化するニュースを見ると、心配で気が気でないということでした。

Photo

歯科のアフマド医師

私はそれを家庭面の記事として書きました。日本人は平和と安定と豊かさの中で中東の戦争を遠い世界の他人事と考えています。しかし、もし、世界との人間的なつながりがあれば、世界は人間が暮らす場所として生々しく見えてくるということです。いま、シリア内戦で 500万人近い難民が出て、命がけで海を渡る難民たちを、受け入れるかどうか、どのように受け入れるかに頭を悩まし、それが政治問題にもなっている国があるなかで、難民の受け入れが議論にもならない日本は、どれだけ世界と人間的なつながりを欠いているのかと、世界の中での日本と日本人の在り方に危うさを感じてしまいます。

横道にそれてしまいましたが、CCP が支援している「子どもの家」はシャティーラ・キャンプだけでなく、レバノン国内の10カ所の難民キャンプで拠点を持ち、幼稚園など子どもの支援、家族支援、女性支援、など幅広い活動を展開しています。欧米やアジアの NGO からの協力、支援を得て様々なプロジェクトを行っていますが、協力 NGO の中でも、CCP は古くからの協力組織として、現在も多くのプロジェクトに関わっています。「子どもの家」全体を統括するカッセム・アイナ代表は「CCP は二人の駐在スタッフを置いて、常にプロジェクトの進展を見ています。パレスチナ難民の状況を理解し、強い信頼関係を維持しています」と語りました。

パレスチナ人は一般的に日本に対して敬意を払い、親愛の気持ちを抱いています。アイナさんが CCP から支援を得ていることについて「誇らしく思っている」と語ったのは印象的でした。

子どもの歯科検診を通して「生活の質」向上

「子どもの家」が CCP に提案して実現したプロジェクトの中に、難民キャンプの子どもたちの歯科検診があります。シャティーラ・キャンプでは1999 年から専従の歯科医師のアフマド・アブウガイヤ医師が「子どもの家」だけでなく、キャンプ内に10あるすべての幼稚園の園児1800人の検診をしています。始めたころはほとんどの子どもに虫歯があったのが、毎年の検査と治療、さらに歯磨きなどの予防を実施し、10 年間で、虫歯は半数以下になったそうです。歯科診療の機器から薬、さらに人件費もすべて CCP の支援を受けています。  アフマド医師は「歯の健康を保つ重要性が分かっていても、体系的に継続的に検査を続けて取り組むのはなかなか実施されていません。このプロジェクトは子どもの健康的な生活を実現するうえで素晴らしい成果を上げています」と話しています。日本でも一人の歯科医が地域の幼稚園の子どもたちの歯のカルテをすべてつくって毎年チェックするような取り組みは珍しいのではないでしょうか。

最初は親たちには子どもの歯は生え変わるという思いがあり、子どもの歯を健康に保つことの意義は理解されていなかったそうですが、歯を健康に保つことで子どもたちの生活も変わることで、親たちの意識も変わってきています。アフマド医師は「私はこのプロジェクトが好きです」と言います。虫歯を痛がる子どもの歯の治療に追われるのではなく、地域ぐるみで虫歯の撲滅を進める取り組みを実践するのは、歯科医としては手ごたえのある仕事でしょう。  このプロジェクトを語るアフマド医師は身を乗り出して、子どもたちの虫歯が減っていくデータを語ります、医師の地道な実践に負うところが大きいのですが、このように人々の「生活の質(クオリティ・オブ・ライフ)」を向上させるようなプロジェクトの支援は、歯の健康にとどまらず、政治的、経済的、社会的に厳しい状況に置かれる難民たちの生活を足場から支える意味を持つものだと思います。

常に戦争の犠牲となるパレスチナ難民

パレスチナ難民は1948 年のイスラエル建国で故郷を追われた後、中東で起こるすべての戦争で影響を受けてきました。67年にアラブ世界が大敗北をした第3 次中東戦争では、東エルサレム、ヨルダン川西岸、ガザをイスラエルに軍事占領され、来年で半世紀となります。91年の湾岸戦争では、パレスチナ人は第2の故郷としていたクウェートなど湾岸諸国から追放されました。2003 年のイラク戦争ではイラクから排除され、2011年にシリア内戦が始まると、シリア国内のパレスチナ難民キャンプのほとんどが戦場となって破壊されたり、国内避難民となったりし、その多くがレバノンに逃れてきました。  パレスチナ難民支援は常に中東情勢の激変で影響を受ける難民たちのニーズにこたえる必要がありますが、CCP が 30 年の活動の歴史があり、現地にコーディネーターを置いていることで、臨機応変な対応ができるというメリットもあります。

「子どもの家」が学校から落ちこぼれないように小学低学年(1年~ 3 年)向けに放課後に行っている「補習クラス」に2012 年からシリアから逃れてきたパレスチナ難民も受け入れています。2015 年度は90人の児童が参加し、レバノンのパレスチナ難民とシリアのパレスチナ難民が別々のクラスをつくっていました。一クラス15人前後です。中には満足な食事をとることができない貧しい家庭の子どももいますから、補習クラスではサンドイッチなどの給食を出しています。この活動もCCPが支援しています。

戦争で心の傷を負う子どもへのケア

 シャティーラの「子どもの家」で英語、アラビア語、算数を教えている教師のハナン・ハッジさん(33)は、シリアとレバノンの教科や内容が異なることから、シリアから来た子どもたちは UNWRA の学校でも、学習に困難を感じる子どもが多いと話しました。  UNRWA は教室も先生の数も足りず、一クラス40人以上にもなる詰め込みで、先生は子どもたち一人ひとりに目を配ることもできません。学校ではレバノンのパレスチナ難民の子どもと、シリアから来た難民の子どもの対立や葛藤、いじめもあり、シリアから来た子どもたちが学校にいかなくなる理由にもなっています。UNRWA の学校は2015 年までは午前中にレバノンの難民の子ども、午後にシリアからきた子どもと2 部制をとっていましたが、今年度から午前中だけで両方の子どもの混合になりました。  それだけに一クラスの子どもの数は増えました。シリア難民への対応で、国際社会からの UNRWA への拠出も減り、予算が少なくなっているためだそうです。そのため、「子どもの家」の補習クラスも、昨年度は、午前中はシリアから来たパレスチナ難民の子ども、午後はレバノンの難民の子どもと、学校とは逆の2 部制をとっていましたが、今年度は学校に合わせて午前中の学校が終わった両方の難民の子どもを一緒に教えています。

シリアから来た子どもの中には、戦争で心に傷を負っている例も多く、対応が求められるそうです。ハナンさんが担当したシリアから来た難民の少女は1年生の時は、給食も食べず、話しかけても答えることはなく、全く心をふさいでいました。ハナンさんが母親に話を聞くと、少女は家でも「いつも怖がっている」というのです。2 年目になって少し変化が見られたそうですが、戦争は子どもたちを心身ともに痛めつけています。  戦争だけでなく、難民キャンプに住む家族は常に貧困や失業など社会問題の重圧を受け、心の問題を抱え込んでしまう子どもたちもいます。「子どもの家」では子どもたちの心理ケアにも力を入れており、常に親たちとコンタクトをし、深刻なケースでは精神科医の診断の下で心理カウンセラーが対応しています。ジャミーラさんによると昨年は深刻な問題を抱えた20人の子どもたちをシャティーラの外にある専門の心理ケアのセンターに紹介したということです。

戦争でも、難民危機でも、貧困でも、最も影響を受けるのは子どもたちです。34 年前に虐殺で家族を失った子どもたちの支援のために活動を開始したシャティーラの「子どもの家」ですが、状況の変化と、世界の変化の中で、直面する課題も変化しています。シャティーラ・キャンプにいる子どもたちの上にも、荒々しい世界が影を落としています。日本の市民社会が、世界の出来事に対して人間としての共感を保つためにも、パレスチナ子どものキャンペーンの活動の重要性があると思います。 レバノンでの支援活動を詳しく見る