地中海を渡った、あるシリア人の体験
(アハメッド・Sさん)

ヨルダンの現地スタッフとして一緒に活動したシリア人のアハメッドさん。エジプトに渡った後、音信が絶えていましたが、スウェーデンから無事でいるとの連絡が届きました。
アハメドさんも多くのシリア難民・パレスチナ難民と同じく、命がけで地中海を船で渡っていたのです。

不穏な空気の高まり

私の生まれた町は、ダマスカス中心地からバスで25分ほど離れています。革命が起こる以前は、仕事、通学、友達に会うなど毎日ダマスカスに通っていました。バスが24時間走っていました。
2011年に革命が始まった時、こんなに恐ろしい戦争、破壊、無秩序の状態が起こるなんて予想していたシリア人はいませんでした。しかし、政府軍がいたる所に検問所を設置し始め、25分で行けたダマスカスまで2時間もかかるようになり、無差別発砲や無差別逮捕など危険が増大していったのです。
ヨルダンにいる日本人のIさんが、事態が落ち着くまでと自宅に招待してくれました。
2012年5月、私は夏服だけ入れた小さなかばんを持ってアンマンに出発しました。それが故郷を出た最後でした。事態はさらに悪化し、2012年8月、政府軍は戦車と飛行機で私の町を爆撃し始めました。家族からは、決してシリアに戻ってこないようにと言われました。

ヨルダンでの生活~支援活動への参加

Iさんは日本人をたくさん紹介してくれ、新しい友人もできました。しかしIさんが帰国した後、心理的にも経済的にも辛い日々が始まりました。数カ月間は友人の家を転々としましたが、ヨルダン政府がシリア人の就労に厳しい制限をかけたため、生活が困難になりました。
南米のテレビ局と一緒にザアタリ難民キャンプに行った時、偶然、知り合いの日本人Tさんに会いました。Tさんは、私が以前シリアのUNHCRでイラク難民支援事業に関わった経験があること、日本語ができることを知っていたため、当時ヨルダンでシリア難民の支援を始めた「パレスチナ子どものキャンペーン(CCP)」に紹介してくれました。最初はアルバイトから始め、2012年11月から6か月間、現地スタッフとして働きました。CCPのおかげで経済的自立ができ、そして同胞を支援する機会に恵まれました。

希望を求めエジプトへ

CCPがヨルダンでの活動を終了した時、私は、当時、大統領がシリア人を歓迎していたエジプトに行くことにしました。エジプトなら生活費が安く、チャンスもあると思ったからです。CCPの仕事で蓄えも少しできたので、勉強して奨学金に応募しようと考えました。
2013年5月、私はエジプトに母と妹も呼び寄せて、カイロのアパートで親戚と一緒に滞在しました。ところが親戚と友人が大挙して押し寄せ、眠るスペースさえなくなってしまいました。しかもその直後、エジプトで軍事クーデターが起きて治安情勢が後退しました。もはや何もできなくなりました。エジプトの新政権は、シリア人が問題を引き起こす原因であると非難し、多くの人びとが私たちを犯罪者とみなし始めたのです。新たな規制のもとで、他のシリア人と同様に私も違法滞在の状態になっていました。私たちはエジプトの政治ゲームに利用されたのです。生活は困難を極め、引きこもって過ごす日々でした。
そして希望がついえた私はついに地中海を渡る「死の舟」に乗ることを決意したのです。所持金が底をついた後に残された最後の希望でした。旅に向けて3500ドルを借り集めました。

一度目の脱出

2014年5月、三人の友人とアレキサンドリアに行き、2500ドルでヨーロッパに渡るという取引をしました。日本人を含む友人たちが私を引き止めるためにアレキサンドリアまで来てくれましたが、私の決意はとても固かったのです。友人は私たちに救命胴衣といくらかのお金をくれました。
密航業者は私たちを12日間引き留めました。私たちは彼が嘘をついていると見破りました。私たちはそこを逃げ出して別の業者のもとへ行きました。翌日、すぐ出発だと言われました。ビニールで覆われたトラックに乗り、何時間も揺られました。

夜中12時頃、砂漠のどこかで私たちは投げ出されました。月明かりの中、完全武装した覆面のベドヴィンがいっぱい見えます。彼らは真夜中に叫び始め本当に恐ろしかった。1時間ほど歩き続けると、ようやく砂の湿り気を感じ、海の音が聞こえ、小舟が見えてきました。

砂漠で置き去りにされて

と突然、無差別の発砲が始まり、完全な混乱状態に陥りました。みなが走り出し、弾丸が自分のそばを突き切った音が聞こえました。邪魔になった鞄は放り出しました。友人の一人が転倒し「死にたくない!死にたくない!生き延びろ!」と叫びました。恐怖しかありませんでした。走り続け、這って進み灌木を見つけました。二人の友と私は灌木と砂地に身を隠しました。射撃の音が聞こえ続け、車が通り過ぎました。恐怖でいっぱいでした。人の叫び声が聞こえました。日の出まで動かないことに決めました。「転倒した友は死んでしまった。彼の家族に何と言ったらよいのだろうか...。」それからの数時間は永遠に続くかのようでした。

太陽が昇り始めました。友人を探そうと携帯の電源を入れると、着信がありました。彼は軍隊に捕えられていました。私たちは軍用地内にいるというのです。ショックでした。地雷が埋まっているかもしれないので、街道まで注意深く歩き、日雇い労働者たちの車に乗せてもらって街に戻り、アレキサンドリア行きのタクシーに乗りました。

二度目の脱出~地中海へ

カイロに戻った時、二度と舟には乗らないと決めていました。しかし数日後、友人と私は再び、希望が全くなく、あらゆるものが暗闇のようだと感じ始めたのです。どうするか? 自殺するのか、エジプトの生活を受け入れるのか、また試練に臨むのか?深く悩んだ末、二度目の試練に臨むことを決めたのです。

2014年6月、私たちは、エジプトの総選挙結果が発表される日に脱出を決行しました。アレキサンドリアで数日、滞在した後の夜中近く、業者は私たちをバスに乗せて今晩出発すると告げました。私たちはアレキサンドリアの沿岸リゾートに連れて行かれました。5分も歩いたところで突然小舟が現れました。体の半分、水に浸かりながら海を進んで、その小さな船に飛び込みました。漁船がロープで小舟を沖合まで引っ張り始めた時、業者は私たちを脅し始めました。持ち物を盗りたかったのです。携帯電話とお金を盗られた人がいました。
遠く消えていく町の明かりが見えました。静寂な瞬間でした。私がエジプトを見たのはそれが最後でした。

エジプトからリビアへ

1時間以上が経ちました。漁船の小さなエンジンの他には何もなく、揺れ動く波と暗闇だけがありました。恐怖で自制心を失った人、嘔吐する人もたくさんいました。そして、大きい漁船に乗り移りました。私は誰かにしがみつかれて海に落とされそうになりましたが、相手を舟に押し戻して何とかバランスを取ることができました。二人とも溺死していたかもしれません。私は水のボトルとデーツの箱を持ちこめました。船の底は酸素がなく、普段は魚の保管場所に使用されているのでとても臭く、多くの人が嘔吐して意識を失い、泣き始める人もいました。

数時間後、私たちはエジプトから完全に離れ、地中海のどこかにいました。最初の数日は食べることができず、あまりに不潔なトイレに行くことができない人がほとんどでした。食べないと生き残れない。私はどんな食事も欠かさず、業者にも賞賛されました。数日後、多くの人々が意識を取り戻し始めました。他のグループがこの航海に加わるまで数日待機させられた後、遂にリビアに向かい始めたのです。

海上の日々

リビアから来る別の小舟に乗り移るのだと言われていました。しかし8日目にリビアで大事件が起き、舟は来ませんでした。業者は私たちをエジプトに送り返そうか、海に放り投げようかと考えていたそうです。一部の人は、暴動を起こして船長と乗組員を人質にとり、自分たちで航行しようと準備をしました。しかし乗組員は武装していたので、私は危険だと思い暴動を起こさないよう説得しました。乗組員も混乱し、何をすべきか分かっていなかったので待つ方が良かったのです。

水と食料が無くなりました。最後の数日、私たちは乾燥した不潔なパンと、ほんのちょっとの豆のスープしか食べられませんでした。乾燥したパンからゴキブリが出てくるのを見ましたが選択の余地はなく、ゴキブリにも生きる価値があると感じました。健康のために日光を浴びました。でないと船酔いするからです。しかし一たび屋根のある場所を離れると、屋根が無い場所で眠らねばなりませんでした。夜はとても冷えます。眠れない夜が何日も続き、友人と抱きあいながら眠りました。

イタリアの警備船に助けられ

13日目にはエジプト人の未成年者が大勢乗った木造船に移動させられました。あまりにひどかったので移動したくありませんでしたが、選択肢はありません。その舟はすでに150人乗っていていっぱいでしたが、私たちをいれて300人になりました。屋根の上に載せられて、そこで二日と一晩を過ごしました。2日間、トイレに行くことも食べることもできませんでしたが、持っていたボトルの水とデーツのおかげで辛うじて助かりました。昼間はひたすら暑く、夜はひたすら寒かったです。

夜には舟がものすごく揺れました。私たちは眠ろうと目を閉じ続ける努力をしました。人は悪夢から覚めると安心するものですが、ここでは完全に逆でした。目を覚ますと現実が悪夢でした。隣人と抱き合いながらまた眠ろうとしました。夢の中では立ち上がることができませんでした。もし立ち上がったら海に落ちてしまうのです。寒くて風が強く、舟はかなり揺れて、揺れる星や暗闇を見ました。私は眠ることができただけ幸運でした。

翌日、私たちは飛行機を見つけ手を振って合図しました。イタリア沿岸警備隊の船がその日の終わり頃やってきました。島のように巨大なタンカーに移送され始めました。大勢だったので何往復もしました。私はほぼ最後の一人で、日没の直前に連れて行かれました。私が舟から離れた直後、舟は海に消えていき、私の人生の一つの章が終りました。

全てを捨てる

生き返ったと感じました。ビスケットと缶詰の水を与えられ、船も安定していました。シチリア南部で赤十字に引き渡されるまでの2日間をそこで過ごしました。私は、輸送船で食糧配給を手伝い始めました。英語を話せる人が二人しかおらず、私はその一人でした。

イタリアは驚くほど美しく見えました。私たちはパレルモの難民キャンプの一つに送られました。海上で17日以上過ごした後、初のシャワーで、真っ黒な水が何分間も流れ出ました。信じられませんでした。私はひげをそり落とし、新しい服を着ました。古い服はとても汚くなっており、まるでぼろ布でした。古い服を捨てて、パスポート以外に過去と私をつなぐものは何も無くなりました。 

イタリアは難民への規制が非常に厳しいため、難民キャンプから逃げようと思いました。移民局が来る前にキャンプから逃げ出し、ローマに行きました。そこで天使に会いました。ノルウェーの友人がある女性にお金を託して私のもとに届けてくれたのです。そのお金があったので、遠縁の親戚を頼ってフランスのグルノーブルに行くことができました。そこに約一週間滞在し、弱った体も回復し始めました。旅行者を装うため服を買いリヨンに行きました。リヨンでは友人に会いました。9年前、フランスに留学する彼を私が援助したのです。友人は私たちのために食糧とパリ行きのチケットを買い、お金をくれました。私は泣きました。過去の良い行いで、どん底の自分が報われるなんて予想もしていませんでした。

新たな人生のはじまり

パリに向かった友人と私は、パリで一晩泊まりました。遠くからエッフェル塔の一部が見えました。エッフェル塔を訪れることは夢でしたが、用心してまたの機会にしました。私たちは移民と一緒になるのを避け、カフェに座っていても誰も疑いませんでした。できるだけ夜行列車に乗りました。ホテル代を払う必要が無く列車の中で眠れるからです。翌日、ドイツのケルンで有名な大聖堂を見ました。とてもきれいでした。列車はハンブルグ、コペンハーゲンを通り、遂にスウェーデンのマルメに到着しました。その後5ヵ月間難民キャンプと移民局の宿舎に滞在しました。そして2014年7月、人生の新たな章が始まりました。

現在、私はマルメに住み、日本人の友人もいてとても幸せです。またスウェーデン人の友人たちからも信頼されていると感じます。私は、これまでの友人や経験に誇りを持っています。いまスウェーデンで生活しながら、日本の心を持ったシリア人、そして誰もが同胞であると考える世界市民だと感じています。