レバノンと難民問題

左:電線と配水管が絡み合う難民キャンプ内の通り
右:かろうじて日光が届く場所で物干し
レバノンのパレスチナ難民キャンプは、70年前に作られた当時にタイムスリップしたような、 陽も差さず密集した場所です。頭上には盗電の電線が蜘蛛の糸のようにめぐらされ、足元には排水が流れ、毎年多くの感電死亡事故が起こっています。キャンプの出入りには軍隊の許可が必要です。 レバノンに逃れたパレスチナ難民は、他国に比べても特に過酷な生活を強いられてきました。 貧困や差別だけでなく、市民権を持てないため教育や保健へのアクセスもなく、厳しい就労制限が課せられています。パスポートも持てず、不動産の所有も認められていません。レバノンに帰化することも、第三国に移住することも難しいのです。また、たび重なる戦火と虐殺事件にも見舞われています。
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瓦礫となった難民キャンプ
1975年から15年続いたレバノンの内戦も、パレスチナ難民に大きな災禍をもたらしました。 内戦に巻き込まれた犠牲者の他、1982年にはイスラエル軍のレバノン侵攻があり、 ベイルートの難民キャンプでパレスチナ人・レバノン人千人以上が殺害されるなど、合計2万人以上の犠牲者が出ました。 その後も難民キャンプの包囲などが起き、"パレスチナ人"というだけで多くの市民が殺害されました。 2007年には、北部のナハルエルバレド難民キャンプに住み着いたイスラム武装グループが、 レバノン軍と3か月間にわたる戦闘を行いました。キャンプは瓦礫となり、4万人の住民が家財、 仕事、思い出など一切を失いました。
レバノン国内ではこれまでに3ヵ所の難民キャンプが廃墟となり、1ヵ所が居住できない状態となって放棄されています。
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"二重難民"となったシリアのパレスチナ難民

シリアからレバノンに避難し、二重難民となったパレスチナ人家族。奥の老人はパレスチナ生まれ
2011年以降、内戦状態のシリアから隣国レバノンに多数の難民が流入しました。
その中には、かつてパレスチナからシリアに逃れ、再びシリアの戦火からレバノンに逃れた多数のパレスチナ人がいます。
「二重難民」となったパレスチナ人は、同じシリアからの難民であっても、シリア人とは扱いが異なり、
国境の通過を制限されて家族が離散したり、滞在許可が取れないなど、更なる苦境に立たされています。
国連の調査によると、シリアから逃れてきたパレスチナ難民世帯の45%が1日1食で暮らし、
91%の子どもが必要な栄養を摂取できていない状態にあります。
> シリア難民支援の活動を見る
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- 封鎖された「ガザ地区」
- 巨大な壁で分断された地域
「ヨルダン川西岸」 - そもそも「パレスチナ難民」とは?
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