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レバノン緊急支援

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レバノンには現在、約28万人のパレスチナ難民と、2011年のシリア内戦開始以降避難してきた約 100万人のシリア難民とパレスチナ人シリア難民が生活し、国の人口の5人に1人が難民という世界で最も難民人口の割合が高い国の一つです。
レバノンのパレスチナ難民の多くは難民キャンプやその周辺に暮らしていますが、市民権がなく土地の所有は認められていません。厳しい就労制限があるため、低賃金の日雇いや季節労働者が多く、国連やNGOの支援に頼らざるを得ない生活を続けています。
また、シリア難民のための難民キャンプは認められておらず、多くの難民がテントやガレージ、非公式の難民キャンプ、またパレスチナ難民キャンプで暮らしています。
そして、レバノンでは、2019年秋以降、経済危機が長期化し、現地通貨のレバノンポンドは経済危機前と比較し98%以上価値を失いました。 ほとんどの物資を輸入に頼っているため、食料や燃料などあらゆる物資の価格が高騰し続けています。食糧や医薬品、燃料も不足しており、公共の電力は機能しておらず、停電が続いています。自家発電に必要な燃料は高額なため、難民の生活に深刻な影響をもたらしています。
通貨暴落や物価高騰により、食糧や医薬品の不足が続き、燃料不足から電力や水供給も深刻です。
また、イスラエルとパレスチナ自治区・ガザの危機が派生し、 2023年10月8日以降、イスラエル北部とレバノン南部の国境周辺を中心にイスラエル軍とイスラム教シーア派組織ヒズボラとの間で攻撃の応酬が続き、 レバノン南部を中心に緊張が高まっています。衝突や国内避難民の急増により、さらなる社会経済状況の悪化が懸念されます。

シリア難民の概況開く

2011年にチュニジアから始まったアラブ諸国の民主化運動、いわゆる「アラブの春」はシリアにも波及しました。シリアで起きた市民の抗議活動は深刻な内戦へと発展し、泥沼化した状態となりました。2016年初めには国内人口の約半数におよぶ700万人近くが避難を余儀なくされ、国外に逃れた難民は500万人に上っています。

>「シリア内戦の4年間を振り返る」(末近浩太 立命館大学教授講演録2015年7月)を読む(PDF1.98MB)

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「二重難民」となったパレスチナ難民開く

シリア難民の中には、シリアで生活していたパレスチナ難民が含まれています。かつてパレスチナの故郷を追われ、今またシリアの戦火を逃れたパレスチナの人々は、"二重難民"となっています。パレスチナ人はUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の保護下に置かれず、UNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)の管轄下となるため、UNHCRで支援されるシリア人とは扱いが異なり、滞在許可が取れない、緊急支援が少ないなど、更なる苦境に立たされています。家族が離散するケースも多く発生しています。
また、国連の調査によると、シリアからレバノンに逃れたパレスチナ難民世帯の45%が1日1回しか食事を摂れておらず、91%の子どもが1日に必要な最低限の栄養を摂取できていません。

母子家庭の困窮開く

母子家庭の多くは、以下のような理由から困窮しています。

  • 女性の就労機会は非常に限定的(特に幼少児がいる場合は困難)。
  • 専門職などを除くと女性の就労に偏見がある。
  • 女性が再婚して子どもを養う事への偏見が強い。
  • 男性中心社会のため、住居探しなど様々な交渉で女性が不利になるケースが多い。
  • 女性は外に出ないのが良いとされ、知り合いがほとんどいない場合、有益な情報へのアクセスが難しい。特に"未亡人"は、最低3ヵ月の服喪が求められ、支援情報・機会などを逃しやすい。

支援は、母子家庭、小さい子どもや障がい者を抱える世帯を優先的に行っています。

現地の声開く

「シリアのアレッポから3人の子どもを連れてレバノンに逃げてきました、夫はその5日後にシリアで爆撃を受けて亡くなりました。それ以来どこにも出かけていません。年老いた母と全盲の父もいます。収入を得るすべがないため支援がなければ生活できません」(アマルさん、33歳/バダウィ)

「夫はシリアで殺されました。9人の子どもを連れて、1年2ヵ月前にアイネヘルウェキャンプにやってきました。トラウマがひどいこの子の状況がカウンセリングで良くなることを願っています」(カウンセリングを受診した子ども(6歳)の母親)

「1月にシリアから逃げてきたの。家族は入国できなくてシリアに残ったままです。お父さんは行方がわかりません。シリアでは毎週末にピクニックを楽しみました。学童クラブの遠足ではシリアの時みたいに川で遊べて本当に嬉しかった。早く家族に会いたい」(リアファさん、14歳/ブルジシェマリ)

シリア難民の少女シードラちゃん

6歳半のシードラちゃんは、出会った時、シリアで負った大けがでまっすぐ歩く事ができませんでした。友達もなく、満足な治療も受けられないまま家にこもっていました。

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    STORY

    シリア難民の少女シードラちゃん

    6歳半のシードラちゃんは、出会った時、シリアで負った大けがでまっすぐ歩く事ができませんでした。友達もなく、満足な治療も受けられないまま家にこもっていました。

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    レバノンのブルジシェマリ難民キャンプで出会った6歳半の女の子、シードラちゃん。
    故郷シリアで戦火が激しくなる中、お母さん、おばあさんと一緒にレバノンに避難してきました。
    シードラちゃんはシリアで爆撃にあい、全身に大けがを負っていました。

  • シードラちゃんとの出会い

    シードラちゃんは2013年6月、シリアのセットゼイナブ(パレスチナ難民キャンプ)からレバノンに避難してきました。出会った時、シードラちゃんはまっすぐ歩く事が出来ませんでした。左手の中指も折れ曲がっていました。シリアでお母さんと歩いている時、突然、爆撃に見舞われたのです。その後、満足な治療を受けられないまま、痛みと後遺症が残りました。3日後、「実家に行く」と言って出かけたお父さんは行方不明のままです。

    レバノンでは、コンクリートむき出しのトイレもない狭い部屋で、たくさんの親せきと一緒に暮らしていました。怪我のことでいじめられるため、シードラちゃんは友達もなく、一人ぼっちで家に閉じこもっていました。 そんなシードラちゃんを見て、お母さんも毎日のように泣いていました。

  • 支援の開始と手術の実施

    私たちは、シードラちゃんが病院で治療を受けらるよう、関係機関を回りました。
    お母さんはパレスチナ人ですが、お父さんはシリア人なので、UNHCRに登録し、提携下の病院で指の手術を受けることが可能になりました。診断の結果、(1)中指の切断と縫合手術、(2)骨折した膝の理学療法、(3)歩行シューズを使った歩行訓練が必要になる、とのことでした。
    しかし、生命に係わるケースではないということで、手術の費用は一部しか支給されず、自己負担が求められました。
    費用を支払うことができない家族の代わりに、当会の支援で手術を行う事になりました。

  • 「日本の皆さんありがとう」

    手術の時シードラちゃんはとても勇敢でした。「お母さんがついてなくても大丈夫」と言って、自分の手が手術される様子を見ていたそうです。手術後の指は付け根を縫い合わせた後が痛々しい状態でしたが、本人はきれいになった手を見て嬉しそうに目を輝かせていました。近所の子どもとも一緒に遊ぶようになりました。その姿は別人のようでした。
    泣いてばかりだったお母さんにも、おばあさんにも笑顔が戻ってきました。誰からも見放されていたと思っていたところに当会との出会いがあり、ソーシャルワーカーや国連の支援も受けられた。そういうつながりを実感できたのでしょう。家族みんなが希望を感じるようになったのだと思えました。

  • リハビリの開始と小学校入学

    手術の後、装具を着けた歩行訓練が始まりました。シードラちゃんは毎週2回、痛みをともなうリハビリをがんばって行いました。
    国連の小学校にも通えるようになりました。幼稚園に通ったことがなかったので少し不安はありましたが、お母さんが教えたり、当会が一緒に活動する現地NGOのスタッフからアドバイスをもらったりして勉強しました。
    心理サポートクラスにも参加しました。絵を描いたり歌を唄ったり、みんなで絵の具を手のひらにつけて、大きな画用紙の上に手形を付けるワークショップも行いました。手術跡の残る手を見られることを気にしたり、うまく絵筆を持てないのではないかと心配しましたが、他の子が協力しあっているのを見ながら一生懸命色塗りを続け、「きれいな絵が描けた」と嬉しそうにしていました。

  • 「ベイルート国際マラソン大会」への挑戦

    ベイルートで毎年開催される中東最大のマラソン大会、「ベイルート国際マラソン」。
    当会では走ることを通じてあきらめない心や協調性を身に付けてもらいたいと、参加を希望するシリア難民の子どもたちの出場を支援していました。
    そのマラソン大会に、手術から4ヵ月が経過したシードラちゃんも挑戦したのです。
    2013年秋、4ヵ月前まではまっすぐ歩くことも出来なかった彼女は、足を引きずりながらも最後まであきらめることなく、1kmのコースを見事に完走しました。隣には満面の笑顔で娘を見るお母さんの姿がありました。

    現在、シードラちゃんはたくさんの友だちに囲まれて、毎日笑顔で学校に通っています。

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  • シードラちゃんのその後

    シードラちゃんは2014年にもベイルート国際マラソンに出場しました。

    この年はシードラちゃんの他にも33人の子どもたちが参加しましたが、シードラちゃんの姿に勇気づけられたという子どももたくさんいました。

    5キロのコースを走った子どもたちは、転んだ友達を助け起こしたり手をつないだりしながら助け合い、全員がゴールまで完走しました。父親をシリアで失い「こんなつらい目にあうなら、お父さんと一緒に死んでしまえばよかった」と作文に書いたマラックちゃんもゴールイン。「初めて自分のことを勇敢だと思った」と語ってくれました。

    シードラちゃんのその後の成長と、「ベイルート国際マラソン2014」の様子は、サラームのバックナンバーでご覧ください。

    • シードラちゃんのおはなし(8分30秒)

      シードラちゃんとの出会いから、手術後、笑顔を取り戻すまでの様子が見られます。お母さんがお父さんとの出会いも聞かせてくれました。

    • ベイルート国際マラソン2014(8分30秒)

      2013年に続き、シードラちゃんが再びベイルート国際マラソン大会に出場しました。その他、参加した子どもたちも、マラソン大会の前後で変わってきた思いを聞かせてくれています。

    • シリア避難民支援 シードラちゃん、再びベイルートマラソンへ

      [サラーム No.107 2016.10.29] (PDF 3607KB)

      「ベイルート国際マラソン2014」で走ったマラックちゃんや他の子どもたちの様子はNHKのドキュメンタリー
      「NEXT 未来のために 走れ 泣くのはやめて シリア人難民キャンプ」として2014年12月に放映されました。

地中海を渡った、あるシリア人の体験

ヨルダンで現地スタッフとして働いてくれたアハメドさんは、地中海を渡る「死の船」に乗り、壮絶な数日間を過ごしました。

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    地中海を渡った、あるシリア人の体験

    ヨルダンで現地スタッフとして働いてくれたアハメドさんは、地中海を渡る「死の船」に乗り、壮絶な数日間を過ごしました。

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    地中海を渡った、あるシリア人の体験(アハメッド・Sさん)
    ヨルダンの現地スタッフとして一緒に活動したシリア人のアハメッドさん。エジプトに渡った後、音信が絶えていましたが、スウェーデンから無事でいるとの連絡が届きました。
    アハメドさんも多くのシリア難民・パレスチナ難民と同じく、命がけで地中海を船で渡っていたのです。

  • 不穏な空気の高まり

    私の生まれた町は、ダマスカス中心地からバスで25分ほど離れています。革命が起こる以前は、仕事、通学、友達に会うなど毎日ダマスカスに通っていました。バスが24時間走っていました。
    2011年に革命が始まった時、こんなに恐ろしい戦争、破壊、無秩序の状態が起こるなんて予想していたシリア人はいませんでした。しかし、政府軍がいたる所に検問所を設置し始め、25分で行けたダマスカスまで2時間もかかるようになり、無差別発砲や無差別逮捕など危険が増大していったのです。
    ヨルダンにいる日本人のIさんが、事態が落ち着くまでと自宅に招待してくれました。
    2012年5月、私は夏服だけ入れた小さなかばんを持ってアンマンに出発しました。それが故郷を出た最後でした。事態はさらに悪化し、2012年8月、政府軍は戦車と飛行機で私の町を爆撃し始めました。家族からは、決してシリアに戻ってこないようにと言われました。

  • ヨルダンでの生活~支援活動への参加

    Iさんは日本人をたくさん紹介してくれ、新しい友人もできました。しかしIさんが帰国した後、心理的にも経済的にも辛い日々が始まりました。数カ月間は友人の家を転々としましたが、ヨルダン政府がシリア人の就労に厳しい制限をかけたため、生活が困難になりました。
    南米のテレビ局と一緒にザアタリ難民キャンプに行った時、偶然、知り合いの日本人Tさんに会いました。Tさんは、私が以前シリアのUNHCRでイラク難民支援事業に関わった経験があること、日本語ができることを知っていたため、当時ヨルダンでシリア難民の支援を始めた「パレスチナ子どものキャンペーン(CCP)」に紹介してくれました。最初はアルバイトから始め、2012年11月から6か月間、現地スタッフとして働きました。CCPのおかげで経済的自立ができ、そして同胞を支援する機会に恵まれました。

  • 希望を求めエジプトへ

    CCPがヨルダンでの活動を終了した時、私は、当時、大統領がシリア人を歓迎していたエジプトに行くことにしました。エジプトなら生活費が安く、チャンスもあると思ったからです。CCPの仕事で蓄えも少しできたので、勉強して奨学金に応募しようと考えました。
    2013年5月、私はエジプトに母と妹も呼び寄せて、カイロのアパートで親戚と一緒に滞在しました。ところが親戚と友人が大挙して押し寄せ、眠るスペースさえなくなってしまいました。しかもその直後、エジプトで軍事クーデターが起きて治安情勢が後退しました。もはや何もできなくなりました。エジプトの新政権は、シリア人が問題を引き起こす原因であると非難し、多くの人びとが私たちを犯罪者とみなし始めたのです。新たな規制のもとで、他のシリア人と同様に私も違法滞在の状態になっていました。私たちはエジプトの政治ゲームに利用されたのです。生活は困難を極め、引きこもって過ごす日々でした。
    そして希望がついえた私はついに地中海を渡る「死の舟」に乗ることを決意したのです。所持金が底をついた後に残された最後の希望でした。旅に向けて3500ドルを借り集めました。

  • 一度目の脱出

    2014年5月、三人の友人とアレキサンドリアに行き、2500ドルでヨーロッパに渡るという取引をしました。日本人を含む友人たちが私を引き止めるためにアレキサンドリアまで来てくれましたが、私の決意はとても固かったのです。友人は私たちに救命胴衣といくらかのお金をくれました。
    密航業者は私たちを12日間引き留めました。私たちは彼が嘘をついていると見破りました。私たちはそこを逃げ出して別の業者のもとへ行きました。翌日、すぐ出発だと言われました。ビニールで覆われたトラックに乗り、何時間も揺られました。

    夜中12時頃、砂漠のどこかで私たちは投げ出されました。月明かりの中、完全武装した覆面のベドヴィンがいっぱい見えます。彼らは真夜中に叫び始め本当に恐ろしかった。1時間ほど歩き続けると、ようやく砂の湿り気を感じ、海の音が聞こえ、小舟が見えてきました。

  • 砂漠で置き去りにされて

    と突然、無差別の発砲が始まり、完全な混乱状態に陥りました。みなが走り出し、弾丸が自分のそばを突き切った音が聞こえました。邪魔になった鞄は放り出しました。友人の一人が転倒し「死にたくない!死にたくない!生き延びろ!」と叫びました。恐怖しかありませんでした。走り続け、這って進み灌木を見つけました。二人の友と私は灌木と砂地に身を隠しました。射撃の音が聞こえ続け、車が通り過ぎました。恐怖でいっぱいでした。人の叫び声が聞こえました。日の出まで動かないことに決めました。「転倒した友は死んでしまった。彼の家族に何と言ったらよいのだろうか...。」それからの数時間は永遠に続くかのようでした。

    太陽が昇り始めました。友人を探そうと携帯の電源を入れると、着信がありました。彼は軍隊に捕えられていました。私たちは軍用地内にいるというのです。ショックでした。地雷が埋まっているかもしれないので、街道まで注意深く歩き、日雇い労働者たちの車に乗せてもらって街に戻り、アレキサンドリア行きのタクシーに乗りました。

  • 二度目の脱出~地中海へ

    カイロに戻った時、二度と舟には乗らないと決めていました。しかし数日後、友人と私は再び、希望が全くなく、あらゆるものが暗闇のようだと感じ始めたのです。どうするか? 自殺するのか、エジプトの生活を受け入れるのか、また試練に臨むのか?深く悩んだ末、二度目の試練に臨むことを決めたのです。

    2014年6月、私たちは、エジプトの総選挙結果が発表される日に脱出を決行しました。アレキサンドリアで数日、滞在した後の夜中近く、業者は私たちをバスに乗せて今晩出発すると告げました。私たちはアレキサンドリアの沿岸リゾートに連れて行かれました。5分も歩いたところで突然小舟が現れました。体の半分、水に浸かりながら海を進んで、その小さな船に飛び込みました。漁船がロープで小舟を沖合まで引っ張り始めた時、業者は私たちを脅し始めました。持ち物を盗りたかったのです。携帯電話とお金を盗られた人がいました。
    遠く消えていく町の明かりが見えました。静寂な瞬間でした。私がエジプトを見たのはそれが最後でした。

  • エジプトからリビアへ

    1時間以上が経ちました。漁船の小さなエンジンの他には何もなく、揺れ動く波と暗闇だけがありました。恐怖で自制心を失った人、嘔吐する人もたくさんいました。そして、大きい漁船に乗り移りました。私は誰かにしがみつかれて海に落とされそうになりましたが、相手を舟に押し戻して何とかバランスを取ることができました。二人とも溺死していたかもしれません。私は水のボトルとデーツの箱を持ちこめました。船の底は酸素がなく、普段は魚の保管場所に使用されているのでとても臭く、多くの人が嘔吐して意識を失い、泣き始める人もいました。

    数時間後、私たちはエジプトから完全に離れ、地中海のどこかにいました。最初の数日は食べることができず、あまりに不潔なトイレに行くことができない人がほとんどでした。食べないと生き残れない。私はどんな食事も欠かさず、業者にも賞賛されました。数日後、多くの人々が意識を取り戻し始めました。他のグループがこの航海に加わるまで数日待機させられた後、遂にリビアに向かい始めたのです。

  • 海上の日々

    リビアから来る別の小舟に乗り移るのだと言われていました。しかし8日目にリビアで大事件が起き、舟は来ませんでした。業者は私たちをエジプトに送り返そうか、海に放り投げようかと考えていたそうです。一部の人は、暴動を起こして船長と乗組員を人質にとり、自分たちで航行しようと準備をしました。しかし乗組員は武装していたので、私は危険だと思い暴動を起こさないよう説得しました。乗組員も混乱し、何をすべきか分かっていなかったので待つ方が良かったのです。

    水と食料が無くなりました。最後の数日、私たちは乾燥した不潔なパンと、ほんのちょっとの豆のスープしか食べられませんでした。乾燥したパンからゴキブリが出てくるのを見ましたが選択の余地はなく、ゴキブリにも生きる価値があると感じました。健康のために日光を浴びました。でないと船酔いするからです。しかし一たび屋根のある場所を離れると、屋根が無い場所で眠らねばなりませんでした。夜はとても冷えます。眠れない夜が何日も続き、友人と抱きあいながら眠りました。

  • イタリアの警備船に助けられ

    13日目にはエジプト人の未成年者が大勢乗った木造船に移動させられました。あまりにひどかったので移動したくありませんでしたが、選択肢はありません。その舟はすでに150人乗っていていっぱいでしたが、私たちをいれて300人になりました。屋根の上に載せられて、そこで二日と一晩を過ごしました。2日間、トイレに行くことも食べることもできませんでしたが、持っていたボトルの水とデーツのおかげで辛うじて助かりました。昼間はひたすら暑く、夜はひたすら寒かったです。

    夜には舟がものすごく揺れました。私たちは眠ろうと目を閉じ続ける努力をしました。人は悪夢から覚めると安心するものですが、ここでは完全に逆でした。目を覚ますと現実が悪夢でした。隣人と抱き合いながらまた眠ろうとしました。夢の中では立ち上がることができませんでした。もし立ち上がったら海に落ちてしまうのです。寒くて風が強く、舟はかなり揺れて、揺れる星や暗闇を見ました。私は眠ることができただけ幸運でした。

    翌日、私たちは飛行機を見つけ手を振って合図しました。イタリア沿岸警備隊の船がその日の終わり頃やってきました。島のように巨大なタンカーに移送され始めました。大勢だったので何往復もしました。私はほぼ最後の一人で、日没の直前に連れて行かれました。私が舟から離れた直後、舟は海に消えていき、私の人生の一つの章が終りました。

  • 全てを捨てる

    生き返ったと感じました。ビスケットと缶詰の水を与えられ、船も安定していました。シチリア南部で赤十字に引き渡されるまでの2日間をそこで過ごしました。私は、輸送船で食糧配給を手伝い始めました。英語を話せる人が二人しかおらず、私はその一人でした。

    イタリアは驚くほど美しく見えました。私たちはパレルモの難民キャンプの一つに送られました。海上で17日以上過ごした後、初のシャワーで、真っ黒な水が何分間も流れ出ました。信じられませんでした。私はひげをそり落とし、新しい服を着ました。古い服はとても汚くなっており、まるでぼろ布でした。古い服を捨てて、パスポート以外に過去と私をつなぐものは何も無くなりました。

      イタリアは難民への規制が非常に厳しいため、難民キャンプから逃げようと思いました。移民局が来る前にキャンプから逃げ出し、ローマに行きました。そこで天使に会いました。ノルウェーの友人がある女性にお金を託して私のもとに届けてくれたのです。そのお金があったので、遠縁の親戚を頼ってフランスのグルノーブルに行くことができました。そこに約一週間滞在し、弱った体も回復し始めました。旅行者を装うため服を買いリヨンに行きました。リヨンでは友人に会いました。9年前、フランスに留学する彼を私が援助したのです。友人は私たちのために食糧とパリ行きのチケットを買い、お金をくれました。私は泣きました。過去の良い行いで、どん底の自分が報われるなんて予想もしていませんでした。

  • 新たな人生のはじまり

    パリに向かった友人と私は、パリで一晩泊まりました。遠くからエッフェル塔の一部が見えました。エッフェル塔を訪れることは夢でしたが、用心してまたの機会にしました。私たちは移民と一緒になるのを避け、カフェに座っていても誰も疑いませんでした。できるだけ夜行列車に乗りました。ホテル代を払う必要が無く列車の中で眠れるからです。翌日、ドイツのケルンで有名な大聖堂を見ました。とてもきれいでした。列車はハンブルグ、コペンハーゲンを通り、遂にスウェーデンのマルメに到着しました。その後5ヵ月間難民キャンプと移民局の宿舎に滞在しました。そして2014年7月、人生の新たな章が始まりました。

    現在、私はマルメに住み、日本人の友人もいてとても幸せです。またスウェーデン人の友人たちからも信頼されていると感じます。私は、これまでの友人や経験に誇りを持っています。いまスウェーデンで生活しながら、日本の心を持ったシリア人、そして誰もが同胞であると考える世界市民だと感じています。

レバノン難民支援の概要

期間 2013年~
場所 レバノン

現在の活動
レバノン山間部に暮らすパレスチナ難民家族に食料や暖房ストーブ用燃料を配布します。

レバノン緊急支援
レバノン緊急支援

期間 2013年~
場所 レバノン

現在の活動
レバノン山間部に暮らすパレスチナ難民家族に食料や暖房ストーブ用燃料を配布します。

食料・燃料

レバノンに暮らす難民は今、未曾有の危機に
命を守るための、食料や燃料の配布

レバノン緊急支援

2019年秋から続く経済危機、新型コロナウイルス感染拡大、2020年8月に起こった首都ベイルートでの大規模爆発事故。通貨危機により物価が高騰し、燃料の価格は100倍近く上がりました。国民のほとんどが困窮する中、レバノンに暮らす難民は今、未曾有の危機に瀕しています。
パレスチナ難民の99%、シリア難民の70%、レバノン人の26%は国連や支援団体からなどから食料支援を受けており、支援に頼らざるをえない状況です。
また、山間部に暮らす人々にとって冬場の燃料確保は生命に関わりますが、多くの難民は購入が難しい状況です。国際機関の支援が減る中、人々の生活を支えるために、食料と燃料を配布しています。

  • 厳しい就労制限と貧困

    レバノンでは、パレスチナ難民は厳しい就労制限が課されており、雇用機会が限られているため、低賃金で日雇い、季節労働、危険を伴う環境などで働かざるを得ない状況です。経済危機のさらなる悪化や新型コロナウイルス感染拡大により、多くの難民はそうした職さえも失ってしまい、生活はさらに厳しさを増しています。また最近は、難民キャンプ内の「コレラ」の流行も報じられています。

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  • 食料と燃料を配布

    配布した食料は、人々が日々の食生活で欠かせないものや栄養価の高いもの、パレスチナの食文化にあったものを選定しました。燃料は、ガソリンスタンドで配布してしたほか、遠隔地に住む世帯には給油車で届けました。

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支援活動のレポート

  • パレスチナ・シリア難民支援活動2016

    2016年度にレバノンで行われた難民支援活動をダイジェストで振り返ります。感謝の気持ちを込めて、出会った子どもたちや女性らの笑顔とともに。ご支援ありがとうございました。

  • シリア難民支援活動2015

    冬を目前に控えた国境近くのシェルターを訪ねました。乳児を抱えるシリア難民世帯や、補習クラス、給食支援の様子も紹介しています。

  • 子どもたちのクリスマスメッセージ2015

    2016年度にレバノンで行われた難民支援活動をダイジェストで振り返ります。感謝の気持ちを込めて、出会った子どもたちや女性らの笑顔とともに。ご支援ありがとうございました。

  • シリア難民支援活動2013

    冬を目前に控えた国境近くのシェルターを訪ねました。乳児を抱えるシリア難民世帯や、補習クラス、給食支援の様子も紹介しています。

  • 子どもたちの深い心の傷

    [サラーム No.107 2016.10.29] (PDF 984KB)

    シリア内戦の長期化により、レバノンのシリア難民の多くは既に4年以上の難民生活を強いられています。深い心の傷を負った子どもたちの現状を報告します。

  • 子どもにだってできることがある

    [サラーム No.107 2016.10.29] (PDF 2,749KB)

    レバノン首都にあるブルジバラジネ難民キャンプ。あることがきっかけで子どもたちが「ごみ問題」解決に起ちあがった!キャンプの環境改善への一つの取り組みを紹介します。

  • 子どもたちと共に

    [サラーム No.106 2016.7.9] (PDF 4.42MB)

    ベイルートにあるシャティーラ難民キャンプ。このキャンプで支援を行う幼稚園や補習クラスに通う子どもたちの変化を追いました。

  • 子どもたちの成長と、お母さんたちを支える

    [サラーム No.105 2016.3.26] (PDF 1.83MB)

    11月、ベイルートにある難民キャンプで爆弾事件が起こりました。そうした不安な状況が続く中で、子どもたちの健康と教育の支援に加え、お母さんたちの緊張やストレスもやわらげられるよう引き続き様々な取り組みを行っています。

  • 越冬支援と出会った家族

    [サラーム No.105 2016.3.26] (PDF 1.83MB)

    冬季、レバノンの気温はかなり下がり、冷たい雨が降り続きます。特に山間部では雪も降り、氷点下以下の日も続きます。越冬支援で訪れた山間部で、簡素な小屋やテントで厳しい生活を送る家族たちに会いました。

  • 児童精神科の支援と教育支援/食糧支援と燃料支援

    [サラーム No.104 2015.11.14] (PDF 2.54MB)

    難民キャンプの中には武装対立による衝突事件が頻繁に起きる場所もあり、シリアの戦火から逃れてなお、危険と孤立した生活が続きます。また国際機関でもシリア難民支援の資金は不足し、本格的な冬を前に越冬対策と食糧不足の懸念が膨らみます。

  • 母親たちを支える活動 ブルジバラジネ難民キャンプで

    [サラーム No.103 2015.7.18] (PDF 2.69MB)

    過酷な経験と生活環境の変化から母親たちも大きなストレスを抱え、助けを必要としています。

  • レバノンでのパレスチナ人・シリア人支援活動

    [サラーム No.102 2015.3.21] (PDF 1.19MB)

    シリア内戦が始まって4年。犠牲者は20万人を超え、300万人の難民が国外に流出しています。レバノンに逃れた難民世帯の45%は1日1回しか食事を摂れていません。

  • レバノンから 明日に希望をつなぐ

    [サラーム No.100 2014.7.19] (PDF 1.16MB)

    シャティーラ・キャンプの補習クラスで子どもたちを教えるアイハム先生は、シリアのヤルムーク・キャンプから二重難民として逃れてきました。

  • シリア難民支援

    [サラーム No.99 2014.3.15] (PDF 1.07MB)

    シリア内戦が始まって3年。国境に近いワーベル・キャンプには難民が押し寄せています。空腹を抱えた子どもたちのために、補習クラスで給食支援を始めました。

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